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広島エスペラント運動史

(E=エスペラント)

・1909年1月に広島高等師範学校(現広島大学)教授で地理学者の中目 覚(なかのめ あきら)(ベルギー滞在中にEを習得)がほか6名とともに広島エスペラント倶楽部を結成、これを日本エスペラント協会(JEA)広島支部ともした。この中には同校の教師でドイツでEを学んだ植物学者の大野直江(なおえ)、農学者の重松達一郎(後に鹿児島高等農林学校に転任しEを指導)や、学外の鉄道技師、高橋邦太郎などがいた。

  この内、高橋邦太郎は、1909年から広島県下で水力発電所建設のために広島に在任していたが、芸備日々新聞などにエスペラントを推奨する論説を掲載させた。

・1915年、中目覚と高橋邦太郎は東支鉄道会社の招待で満州旅行、かの地や中国などでエスペラント宣伝活動を行った。また同年、広島市に小坂 狷二(おさか けんじ)を迎えた。

・1922年、関 春夫主催のE講習会に50人参加、1927年には呉E会創立、講習会に30人参加、1929年講習25人、40人参加。この頃にEを学習した高橋 謙が1923年Hiroŝima Ateneo Esperantaの講師。

  同年のJEI会員名簿では広島市の会員8人、他の広島県内の会員10人。

・1931年、毎月1、15日の例会に50人参加。

・1937年、高橋 謙がJEI広島支部を新設、代表、自宅でE例会。孫娘の野原エミは2021年現在の広島E会事務局長。

・1944年、平川 寿(ひさし)の呉市の自宅を憲兵隊が家宅捜索、平川はE書物を焼却した。

・1945年、高橋 謙が被爆死、吉田 肇夫(ただお)が被爆した。

 

・1948年、田中貞美(さだみ)は1960年まで広島E会で活動、1951年、JEI広島支部を再建、1958年会長。1954年、小倉 豊文(おぐら とよふみ)著「妻の屍(しかばね)を抱いて」を平川 寿らと“Kun la kadavro de l’ edzino” としてE訳、さらにE版からドイツ語、ハンガリー語、ブルガリア語、ベトナム語、ポーランド語、リトアニア語に訳された。

・1950年、吉田 肇夫がEを学習、1991年~2007年広島E会長。

・1967年、第5回中国・四国エスペラント大会は前夜祭を10月21日に広島市内で行い、大会本体を22日に呉市勤労者文化会館で開催した。なお、後年、中国・四国地方をまとめる運動体には変遷があった。(ここまで、2021-05、Revuo Orienta誌初出)

 

• 1952年、11月、伊藤八郎(広島女学院高校数学科教諭, 後に呉市三津田町で教会牧師)、広島女学院高校にエスペラントグループ結成。

1954年、広島女学院中学校にエスペラントクラブ設立。

1958年、小坂狷ニ古稀記念事業委員会発起人となる。

 

• 1960 年代、広島大学と広島女学院大学のエスペラント部から、全国エスペラント学生合宿に参加。ロンドハルモニーア創始者の鈴木弘(京都大学)と学生の交流をきっかけに、Nova Kursolibro (rekta metodo) 、理念学習会、職掌分担を取り入れ、分科会、例会、合宿、講習会等始めた。

1965年の東京での第50回Universala Kongresoに向けて活動が活発化した。

1966年、幟町(のぼりまち)中学校にエスペラントクラブがあった。

1968年、12月、広島大学の佐々木洋(ささきひろし)、羽熊直行(はぐま なおゆき)が「ajn」設立。御幸町に事務所として高田荘を借りる。

1969年、1月、第1期市民エスペラント講習会。

5月、第2期市民エスペラント講習会。

6月、「ajn」が「HEA(広島エスペラント協会)」へ発展的解消、約50名。

7月、機関誌「Freŝa Vento」創刊。中国RH準備会発足。

秋、第3期市民エスペラント講習会。

冬、第4期市民エスペラント講習会。

 

• ※ 1969 年秋以降、毎年春と秋に九州へブリガードが行なわれ、京都 • 岡山 • 広島 • 九州内のRH 会員がブリガード隊員となりエスペラントの宣伝活動を行なった。(※ s-ro 森川和徳、2020-05, RO誌「九州を駆け巡った学生時代」より) 

 

•  1970年、4 月、広島エスペラント協会が広島ロンドハルモニーア(広島国際語教育協議会)に移行、市民ロンド発足。

5 月、第5 期広島RHエスペラント講習会

8 月、第6 期広島RHエスペラント講習会

10 月、修道高等学校エスペラント研究会(同好会)設立、21 名。

11 月、広島市青少年センターで高校生、大学生、市民の合同学習会始まる。

12 月、ザメンホフ祭。

 

•  1971年、1 月、広島高校生エスペラント連合結成、31 名、機関紙 Infanaj Batalantoj は以後 1973 まで毎月発行を続けた(30ヶ月)。各行事報告、誌上学習会、翻訳、単語集、小話など内容も充実、特筆すべきは高校生自身による歌の作詞、作曲も活発におこなわれたことで、多くの曲が現在も歌い継がれている。

1974 年迄の高校生による自立的活動は、世界的にもほとんど他に例を見ない奇跡のような一コマだった。

 

1971年

6月、第3回第一書記念祭

9月、高校生、広島RHへ合流。

1973年、第3回中四国連合大会。

5月、ひかり青年の家、新歓合宿。

6月、第4回第一書記念祭。

7月、江田島青年の家、RH全国学生合宿。

10月、九州ブリガード。

12月、エスペラント祭。

RHには学生ロンドと市民ロンドとがあったが、1971年には市民側で、「全国市民ロンド連絡協議会」が結成され、11月1日に「全国市民ロンド連絡協議会機関誌」のN-ro 001が発行された。この機関誌がN-ro 002(12月)から「Sennoma」となった。

 そのN-ro 001からしばらくの発行者が市民連絡員の内、広島の市民RHanoのNさん。

他に広島県内には呉にMさん、福山にOさんが市民連絡員をしていた。すなわち、広島市民ロンド、呉市民ロンド、福山市民ロンドがあった。

  また、1971年11月21日には中四エスペランティスト大会が広島中央公民館であった。歴史的にはこれが「第1回中四大会」のようだ。主催は「HRHとHESの共催」とSennoma2号にあるので、これは「広島RHと広島エスペラント会」で、部分参加者も含め68名の参加だった。

ここで中四エスペラント連合が設立され、広島の俣野氏が会長に選出され、また第2回大会は翌年岡山と決まった。

 Sennoma n-ro004(1972年3月)によると、1972年2月13日、14日に、福山市の広島県立福山青年の家に38名が集まった「瀬戸内地区市民合宿」があった。(以上はS-ro 柴山純一の、RH市民機関誌 "Sennoma" 1971年、1972年まとめより)

•  1975年、8月、アメリカに勝利したベトナムから新政府代表団が来日、5人の団員の一人、Dao An Kha氏が来広、歓迎会の後、金沢市での日本E大会に出席するために出発する。

  1975 年、広島大学生と広島女学院大学生を中心に、新入生勧誘、歓迎会、広島市青少年センターでの市民との合同学習会、6月の第一書記念祭が行なわれた。

夏に第2回RH大会があり学生が参加。その後、全国組織委員会(活動者会議)発足、広島に事務局が置かれ、頻繁なnformiloの発行により全国の活動を広島が牽引した。

12月、エスペラント祭、国際児童画展等が行われた。

1976年以降、各大学での新入生の入部者が増加、学生、市民それぞれinformiloや機関誌(学生が kaleŝo、市民が Sennoma)を発行。春と秋のRH全国合宿参加、ブリガード、大学祭、第一書記念祭、エスペラント祭等の活動の活発化。

1977 年、7 月には西日本交歓会を行ない、県を越えて合宿など活発に活動、交流。

1978 年、5 月、西中(国)四(国)新歓合宿

 

•  1980 年、全国学生委員会が発足、広島と岡山の学生を中心に、西日本各地に行っての勧誘活動、ブリガードが行なわれた。

 ※RH最盛期の1980 年には、全国30 都市に40 大学ロンド、350 人の学生会員がいた。(※S-ro 森川和徳、RO誌、2020-05より)

 

11 月、第5 回中四国エスペラント大会、" Klariga parolo en Pacmemora Muzeo" を記念出版。

1983 年から1988 年、学生の数が減り始めたが、市民と共に活動は続いた。

1988 年、韓国からの旅行者との交流が始まる。また、例会、釣り大会、海水浴、第一書記念祭、大学祭、ザメンホフ祭、忘年会等、市民と学生が協力して活動。

 

•  1990 年、日韓合宿、市民と学生の韓国旅行。

1991 年、この頃から学生が減り、広島大学と広島女学院大学の部室を返した。活動の場は全国学生会、エスペラント世界大会や日本大会への参加等になり、広島エスペラントセンターの忍岡家で開催される例会等へ参加するようになる。

1992 年、千代田町でMaja Festo(全国RH)開催。 (ここまで、2021-08,広島RHオンライン同窓会時に各年代代表者発表のRH活動史をまとめた)

 

・1970年代、広島大学生を中心に広島女学院大学生などロンドハルモニーア(Rondo Harmonia, RH)がE初級学習会を開き、杉林晴行、忍岡 妙子(1976年)らが受講した。

・1984年、広島エスペラントセンター(HEC)を忍岡 守隆・妙子が自宅に開設、1989年から月例会、吉田 肇夫、土屋 哲郎など出席した。この土屋は以前、1950年代、幟町中学校で入院中の佐々木 禎子の担任教師。禎子の白血病死を悼む同級生たちの「原爆の子」建立運動にEで国際的な募金を集めた。

・1984年からHECに30か国、300人以上が宿泊し、毎回の歓迎夕食会には最盛期会員30人の半数が出席したが、出席した青年の多くは数年後、生活の変化で会を去った。

・1987年、HECは “Vojaĝo en Hirosima”初版、2007年リベーロイ社版出版、2500部を54か国へ発送した。2012年、 “Pli sciu pri Hirosima”出版。2018年、“Atestas atombombito koredevena PAK Namĵu” HEC出版。

・1994年8月、韓国での世界エスペラント大会後の「アジア訪問団」として2名が広島訪問、講演。

・1996年8月9日~11日、その数年前から打診されていた第83回日本エスペラント大会の広島招致が実現して10か国437人が参加した。ただ、宮島に宿泊した126人のうち73人が宿舎のホテルが起こした食中毒に罹病、救急車延べ16台が出動、22人が入院した。

・1998年から岡山エスペラント会主催「蒜山(ひるぜん)合宿」に広島エスペラント会から9人、1999年は10人と、2004年第7回まで参加した。

・2001年8月18日~19日、第4回中国四国エスペラント大会が広島市の弥生会館で開かれ、35人の参加者と13人の不在参加者がいた。

・2002年から広島「国際女性デー」にEで海外とメッセージを交換する活動は2009年には69か国、268通の返信を得るまで広まり、「女性デー」実行委員会にHEC仲介の活動が定着した。

・2007年、横浜市で開催された第92回世界エスペラント大会の参加者のうちPostkongresa Ekskursoの広島観光に32人と30人の2グループが来るのを会員が広島駅で迎え、宮島観光にも同行した。

・2008年、岡本 三夫(平和学)・珠代(家政学)が参加、2010年からHEC週例会を市内中心部の「岡本三夫非暴力平和研究所」で持った。

・2012年、杉林 晴行の提供するマンションの1室に移り「HEC東雲塾」で週例会、2013年11月9日、10日にHECで第14回中国・四国エスペラント大会を開催し60人参加。2017年、杉林の提供で広島駅近くのマンションにHECを移した。

・2020年、2021年第108回日本エスペラント大会を招致した。(ここまで、2021-05,RO誌初出)

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